ストーリー3ー葛城修験ー
大阪府、和歌山県、奈良県の間には和泉山脈と金剛山地があり、これらはL字型に
つながって府県境になっている。総延長112kmに及ぶこれらの峰々一帯は「葛城」と
呼ばれ、古来より神々が宿る山として人々の信仰を集めていた。葛城修験誕生の地で
ある。
修験道の開祖、役行者は葛城の峰々に法華経28品を1品ずつ埋めて28カ所の経塚を
造った。これら経塚と滝や巨石、寺社や祠などを巡って行う修行や行場を総称して
「葛城修験」と呼ぶ。
犬鳴山七宝瀧寺は役行者によって大和大峰山より6年早く開かれたため「元山上」と呼ばれている。そして葛城28宿修験根本道場である。役行者は7世紀中ごろ葛城山のふもとで
生まれた実在の人。葛城山系は役行者の最初の修行の地だった。
一般的に修験道の修行は深く険しい山中で行われるものだが葛城修験の地はそれほど高い山ではなく、比較的集落に近いところということもあり修験者たちは地域の信仰にも深く
関わってきた。
水の得にくいこの地域での農業は、水を得ることが最大の課題であった。この地域の人々は中世の時代からため池や用水路を建設して水の確保に力を注いできた。そしてそれらは現在も機能して田畑を潤している。
しかし雨が降らず干ばつの時には神仏だけが頼みの綱となり、滝や神社で修験者たちに
よる雨乞いの祈祷が行われた。これは戦前まで行われていたそう。実際、【平安時代に全国的に大干ばつがあり、諸国の霊山、神社仏閣に雨乞い祈願のお触れが出た。結果、泉州一円にだけ
霊験あらたかに雨が降った】ということがあり、この時「犬鳴山よ、あっぱれなり」ということで、時の天皇、淳和帝より七宝瀧寺という名前を賜ったという歴史がある。犬鳴川渓流にある宝石のように美しい七つの滝にちなんで命名されたものである。
このように葛城修験は、村の生活と結びつきが深く、村として修験者たちの受け入れ態勢が整っていたようです。
犬鳴山七宝瀧寺は、明治初期における神仏分離政策の影響で、一時廃れ、施設なども荒廃しておりましたが、第二次大戦後に復活し、これを機に女性の修験者も受け入れるようになったそう。
現在は「一日修験体験コース」があり、修験の実体験をすることができます。(要予約)